義光の曾孫にあたる遠光も文武に秀で、平家追討の手柄で重用されました。また、高倉天皇のとき、宮中を襲う不思議な光を弓で追い払うよう召しだされ、さらにその名声を高めました。そして、遠光の息子である長清が、彼の出身地である甲斐藩(現在の山梨県)の村の名にちなみ、はじめて小笠原姓を名乗りました。当時、小笠原家が弓馬術に優れているとの名声はすでに確立されており、「長清に至りて宗を小笠原の家に得て、世々その業を失せず、もってますます佳声を本朝の武夫の囲場に鳴る」と伝書にも示されています。
長清は源頼朝の弓馬の師として仕え、小笠原の名声をさらに高めましたが、礼法については、鎌倉時代の最盛期の武家において差し迫った必要性がなかったため、教授しませんでした。
弓馬術に礼法を加えたのは7世貞宗で、小笠原流中興の祖と言われています。現在の小笠原流礼法は、この7世貞宗の教えが伝えられてきたものです。貞宗は鎌倉幕府の崩壊と室町幕府開府の間、後醍醐天皇に仕えました。貞宗は、後醍醐天皇から鎌倉幕府崩壊に対する多大な貢献を認められ、「小笠原は日本武士の定式たるべし」との御手判を賜りました。貞宗は引き続き、足利尊氏の室町幕府に参加し、礼法の師範としてさらに名声を高めました。
小笠原家は足利一族に代々仕え、弓馬術だけでなく、男子としての慣習、婚礼の慣習その他催事の礼法を教授しました。
貞宗の3代後の長秀が小笠原流礼法の基礎となる「三議一統」を撰しました。 「三議一統」は、古代の宮廷作法の悪化を嘆いた三代将軍足利義満の命によって書かれました。
戦国時代、小笠原氏は信濃(現在の長野県)の守護を命じられ、武田信玄と幾度も戦い、一度は領土を失いましたが、結局は徳川家康の旗下取り戻しました。
この間、小笠原家の当主である貞慶が、「小笠原礼書七冊」を嫡男秀政に伝授しました。この「小笠原礼書七冊」は後の華美を誇るだけの煩雑な礼法と異なり、武家の質朴な礼の本義というものが示されています。
1615年、大阪夏の陣が勃発したとき、秀政とその嫡男忠修は徳川の支援のため戦地に赴き、壮烈な戦死を遂げました。その功もあり、小笠原氏は明石、播磨11万石(現在の兵庫県西部)へ、ついで小倉、豊前15万石(現在の福岡県北東部、大分県北部)の領主となりました。
江戸時代、小笠原氏は代々将軍家の礼法指南を司っていました。武家社会の作法が受け入れられるにつれて、一般の人々も支持するようになりました。小笠原流礼法は徹底しており、年中行事の儀式、家具の配置、衣服の替え方、たたみ方、正しい手紙の書き方、食事の取り方、贈答の包み方などなど事細かに説明されています。
明治時代になり、小笠原氏は伯爵位を授かり、現在に続いています。