小笠原流礼法の神髄
「今日は小笠原流ぬきでいこうや」といえば、堅苦しい形式はなしで気楽に、という意味で使われるように、小笠原流は窮屈なものと思われています。

 確かに、小笠原流の教えの多くは極めて厳密かつ厳格なものですが、社会人としてわきまえてしかるべきことを振る舞うことが小笠原流礼法の極意となります。よく誤って受けとめられますが、小笠原流の教えはとても自然なものです。

 小笠原流の誤った受け止め方がどうして生まれたかを説明する前に、小笠原流の神髄に振れてみる必要があるでしょう。小笠原家では、弓術、馬術、礼法を総称して“糾法”と呼びます。伝書によると、糾法という言葉は「平和の時は進退応対の礼、戦時には軍旅のはかりごと」と表されています。古代武家必須の故実をひとくくりにしたものだったのです。さらに、「三議一統」をみると、糾法は法をひろめていく(弓法)と表されています。またそのほかにも、穹法(法を尊ぶ)、躬法(法をみにつける)、供法(法を供える)、救法(衆生を救う)、(満ち足りて栄える)などいろいろな表現で用いられています。糾法は文明の総体、人の心のあり方をひとくくりにする言葉なのです。それでは、糾法の原則をふまえ、礼はどのようにすれば発現されるのでしょうか。

 伝書には礼の極意が次のように示されています。

 「わが心に思うことをやめて、人の道理を立つること、さ候えば環の端なきがごとくにて候。所詮、わが初めの一念を捨てて、真実の道理を相互いにもとめて、おのずから、われと悟り知るべきなり」(人は自分の考えを捨て、他人の意見を聞くべきである。最初の考えを捨ててしまえば、真実はおのずからやってくる)

 「人は大かた、高きもいやしきも、人のために辛苦をするならいなり。惣じて、身にそうたほど、分際にしたがい、徳を諸人にほどこすべし」

 すなわち、礼とは他人への心遣いです。その表現の底にあるのは思いやりやいたわりのまごころです。

 他の伝書には、礼は心身が調和した状態で、水がどんな器にも形を変えて従うような融通性をもつものと記されています。

 器に随うこと、つまり時、所、対人関係における自分の位置をわきまえて振る舞うことが、礼の心であり行動なのです。

 これに加えて小笠原流では、“美”すなわち“行動の美学”に重きを置いています。伝書中にも“見憎く候”“見よく候”といったことばが頻繁に現れています。この“美”は、礼を行う心の座りのなかから見出すものなのです。

 それでは、なぜ小笠原流は堅苦しくこちこちのものと思われるようになったのでしょうか。たぶんそれは、小笠原流の歴史と糾法の奥義がほんの一握りの選ばれた人だけしか知られていなかったからでしょう。

 糾法は武士階級のなかでは全般的に行われていましたが、その奥義は門外不出とされていました。小笠原家の当主、長男そして将軍家だけが糾法の奥義が伝えられました。

 徳川5代将軍綱吉の頃、大きな社会変動が起こりました。武士階級は当時力をつけつつあった町民階級に頼るようになりました。経済の実権が町人に移ったことにより、一般社会のなかで標準的な礼法が求められるようになりました。その基準として小笠原流礼法が選ばれたのです。

 礼法の指導者を求める声が高まるにつれて、自称小笠原流の師範が次々と輩出してきました。しかしこうした礼法専門家の大半は、小笠原流礼法の本当の知識はなく、ぜいたくで事大主義のにおいの強い“小笠原流”をつくりあげ、礼法を煩雑な瑣末主義のものにしていきました。

 明治時代になっても事情は変わらず、江戸時代の礼法がそのままとり入れられました。 必須科目として教科に組み入れられた女学校での作法教育がさらに、小笠原流のイメージを悪化させました。

 戦後、自由を尊重する個人主義が浸透していくなかで、厳格な形式を持つ礼法を守る動きはなくなりました。しかし、ここ数十年間、社会の不安が高まり、学校教育に多くの混乱が生じています。このような傾向のなかで、礼法を見直す動きが高まっています。小笠原流では、現代の日本社会という“器”に、“形”を整え、その見直しを進めています。今日、礼法は個人の自由と権利に重きを置いた形で一般の人々に教えられていますが、その“心”は封建時代のものと何ら変わりありません。心身の調和、そしてあくまで相手を思いやる「心遣い」なのです。


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